神戸の街に朝霧が立ち込める、そんな季節になりました。ベランダでコーヒーを飲みながら、ふと手に取った一冊の絵本。その柔らかなページをめくる瞬間、私はいつも別の世界への扉を開けているような気がします。
38歳になって、広告代理店時代の華やかだけれど消耗する日々から離れて数年。結婚を機に退職したとき、周囲は「もったいない」と言いました。でも、本当にもったいないのは、自分の心が本当に欲しがっているものに気づかずに過ごすことなのではないか――そう思うようになったのは、絵本と向き合う時間が増えてからかもしれません。
今日は、そんな私が足を運んだ、あるいはいつか必ず訪れたいと願っている、日本各地の絵本に関する施設をご紹介したいと思います。単なる観光ガイドではなく、そこにある「物語」を、皆さんと共有できたらと思っています。
ちひろ美術館――透明な色彩に包まれる、祈りの空間

東京と安曇野、ふたつの聖地
いわさきちひろ。その名前を聞いて、あの淡い水彩の子どもたちの姿が浮かばない人はいないでしょう。ちひろ美術館は、東京の練馬区と長野県の安曇野市にある、世界初の絵本美術館です。
ちひろ美術館・東京は、西武新宿線の上井草駅から徒歩7分という住宅街の中にあります。神戸から訪れるには、新幹線で東京へ、そこから少し足を伸ばす形になりますが、その静けさと親密な空間は、わざわざ時間をかけて訪れる価値があります。入館料は一般900円、高校生以下は無料という良心的な設定も嬉しいところです。
一方、安曇野ちひろ美術館は、ちひろのご両親が戦後開拓農民として暮らした土地に建てられた、より広大な施設です。53,500㎡もの安曇野ちひろ公園に囲まれ、北アルプスの山々を背景に、絵本と自然が一体となった空間が広がっています。
私が特に心惹かれるのは、ちひろの作品に漂う、ある種の「透明な悲しみ」です。広告代理店時代、私たちはいつも「明るく、わかりやすく、ポジティブに」というメッセージを作り続けていました。でもちひろの絵は違う。子どもたちの無邪気な笑顔の向こうに、戦争や平和への祈り、人生の儚さが透けて見えるのです。それは決して重苦しいものではなく、むしろ優しく包み込むような深みです。
館内には、ちひろの代表作や初期童画、油彩作品などが展示されており、その画業の全体像に触れることができます。また、世界の絵本画家の作品も収蔵されており、絵本芸術の奥深さを感じられる構成になっています。
アクセス情報:
ちひろ美術館・東京:西武新宿線上井草駅より徒歩7分、JR中央線荻窪駅より西武バス「上井草駅入口」下車徒歩5分
安曇野ちひろ美術館:JR大糸線信濃松川駅よりタクシー約5分、または安曇野周遊バス利用
入館料:大人900円、高校生以下無料(安曇野も同額)
軽井沢絵本の森美術館――欧米絵本の歴史を辿る、森の中の図書館
長野県の軽井沢、「ムーゼの森」という名の美しいエリアに、軽井沢絵本の森美術館はあります。
ここは欧米の絵本文化の歴史を紐解く施設として、第1展示館では絵本の創成期から現代までの流れを、第2展示館では年間2〜3回の企画展を開催しています。2026年には、ピーターラビット™をテーマにした特別展も予定されているとのこと。
神戸から軽井沢へは、新幹線で東京経由、そこから長野新幹線で軽井沢駅へ。駅からは車で約15分ほどです。少し距離はありますが、軽井沢という避暑地全体を楽しむ旅として計画すれば、充実した時間になるでしょう。
入館料は大人1,000円、中高生700円、小学生500円。併設された絵本図書館には、木の温もりを感じる空間に絵本が並び、ゆっくりと絵本の世界に浸ることができます。
広告の世界にいたとき、私はいつも「コンテクスト」を意識していました。商品を売るには、その背景にある物語が必要だと。絵本もまた同じです。一冊の絵本が生まれるまでには、作家の人生、その時代の社会背景、印刷技術の発展など、様々な文脈が存在します。軽井沢絵本の森美術館は、そうした絵本の「コンテクスト」を丁寧に見せてくれる場所です。
私はときどき、自分の中に暗い部分があることを感じます。明るく振る舞っていても、心のどこかで「これでいいのだろうか」と問い続けている自分。でも、絵本の歴史を学ぶと、そうした陰影こそが人間らしさなのだと気づかされるのです。
やなせたかし記念館――アンパンマンの故郷で出会う、正義と愛の原点
高知県香美市にある香美市立やなせたかし記念館は、アンパンマンの生みの親、やなせたかし先生の故郷に建てられた施設です。
本館の「アンパンマンミュージアム」には、やなせ先生がこの美術館のために描き下ろした貴重な原画が並び、絵本の原画展示も充実しています。併設の「詩とメルヘン絵本館」では、やなせ先生が編集長を務めた雑誌『詩とメルヘン』の作品群に触れることができます。
神戸からは、新幹線で岡山へ、そこから特急南風で高知方面へ向かい、土讃線に乗り換えて土佐山田駅下車、さらにバスで約25分というルートになります。決してアクセスが良いとは言えませんが、だからこそ、そこには「わざわざ訪れる価値」があるのです。
入館料は、オンラインでの事前予約が必要で、大人800円、中高生500円、小学生以下300円です。
やなせ先生は、戦争を経験し、弟を亡くし、長い下積み時代を過ごした後に、アンパンマンを生み出しました。「本当の正義とは、困っている人に自分の顔を食べさせること」――その思想の背景には、先生自身の苦難と、それでも失わなかった人間への信頼があります。
広告代理店時代、私は「正義」という言葉を何度も使いました。でも、それは往々にして、企業のイメージ戦略の一部でした。本当の意味で、誰かのために自分を差し出すこと。それがどれほど難しいか、退職してから初めて考えるようになりました。やなせ先生の記念館は、そんな私に、もう一度「正義」の意味を問いかけてくる場所です。
射水市大島絵本館――北陸の隠れた名館、光が満ちる船の中で
富山県射水市にある射水市大島絵本館は、1994年に開館した、絵本専門の公立博物館です。
建物のコンセプトは「丘の上の舟」。建築家・長谷川逸子氏による設計で、第7回公共建築賞生活施設部門を受賞した美しい建築です。外からの暖かな光が差し込むガラス張りの壁が特徴的な館内には、国内外の絵本約1万冊が収蔵されており、自由に閲覧できます。
神戸からは、新幹線で富山へ、そこからJR北陸本線とあいの風とやま鉄道を乗り継いで小杉駅へ、さらにバスで約15分です。少し遠いですが、北陸の静かな風景の中にある、この隠れた名館は、絵本好きならぜひ訪れてほしい場所です。
入館料は大人600円、高校生300円、小中学生100円。「感じる・つくる・伝える」をテーマに、絵本原画の展示だけでなく、オリジナル絵本やグッズを作れるワークショップも充実しています。
私が広告の仕事をしていたとき、クリエイティブは常に「アウトプット」でした。クライアントの期待に応え、締め切りに追われ、次々と作品を生み出す。でも、本当の創造性は、もっと静かで、もっと内側から湧き出るものなのではないか――そう思うようになったのは、絵本と向き合うようになってからです。
大島絵本館のワークショップは、「誰でもオリジナル絵本が作れる」という、とても民主的な試みです。プロでなくても、子どもでも、自分だけの物語を形にできる。それは、私がかつて失いかけていた「創造する喜び」を思い出させてくれます。
えほんミュージアム清里――八ヶ岳の麓、原画と出会う静謐な時間
山梨県北杜市の清里高原にあるえほんミュージアム清里は、1997年にオープンした絵本美術館です。
ここでは、エロール・ル・カインをはじめとする国内外の絵本作家の原画や未使用原画が展示されています。清里という自然豊かな環境の中、年に数回の企画展を通して、絵本の原画が持つ力を間近で感じることができます。
神戸からは、新幹線で東京へ、そこから中央線の特急あずさで小淵沢駅へ、さらに高原列車で清里駅まで。駅からは車で約10分です。避暑地としても有名な清里ですから、夏の旅行先として訪れるのもおすすめです。
入館料は一般800円、小中学生300円。開館時間は10:00〜17:30で、火曜休館(GW・夏期は無休)、冬期は12月下旬から3月下旬まで休館となります。
絵本の「原画」を見るということは、印刷された絵本を読むこととは、まったく違う体験です。筆のタッチ、色の重なり、紙の質感――それらはすべて、作家の「手」の痕跡です。
広告の世界では、すべてがデジタル化され、修正され、最適化されていきます。でも絵本の原画には、人間の手の温もりがそのまま残っている。そこには、完璧ではないけれど、だからこそ愛おしいものがあります。
私は時々、自分が完璧主義すぎるのではないかと思います。広告代理店で身につけた「完璧に仕上げる」という習慣が、今も抜けきらない。でも絵本の原画は教えてくれます。不完全さもまた、表現の一部なのだと。
神戸からの旅、そして心の旅
こうして日本各地の絵本施設を紹介してきましたが、神戸在住の私にとって、実はもっと身近な場所もあります。
神戸には、こども本の森 神戸という施設があります。三宮駅から徒歩圏内、東遊園地の近くにあり、入館は無料(事前予約制)です。建築家・安藤忠雄氏の設計によるこの施設は、大阪の「こども本の森 中之島」の姉妹施設として、2022年に開館しました。
絵本専門ではありませんが、子どもから大人まで楽しめる多様な本が揃い、表紙を見せる陳列方法で本との出会いを演出しています。私も何度か足を運んでいますが、コンクリート打ちっぱなしの建築と本の温もりが不思議に調和した、心地よい空間です。
神戸から全国の絵本施設へ旅をすること。それは物理的な距離を移動するだけではなく、自分の内面を旅することでもあります。
広告代理店を辞めてから、私は「自分は何がしたいのか」と何度も自問してきました。華やかなキャリアを捨てたことへの後悔、周囲の目、そして自分自身への失望――そんな暗い感情が、心のどこかにずっとありました。
でも絵本は、私にそっと語りかけてくれます。「完璧でなくてもいい」「ゆっくり進んでもいい」「あなたの物語は、あなただけのものだから」と。
おわりに――絵本が教えてくれる、人生の色彩
絵本は、子どものためだけのものではありません。むしろ大人になってから読む絵本には、子どもの頃には気づかなかった深い意味が潜んでいます。
私は今、38歳です。若くもなく、でも人生の折り返し地点にも達していない、微妙な年齢です。明るく天真爛漫に振る舞うこともあれば、一人きりになると、どうしようもなく暗い気持ちに沈むこともあります。
でも、それでいいのだと、絵本の旅が教えてくれました。人生には光と影がある。どちらも自分の一部として受け入れること。それが、本当の意味で「大人になる」ということなのかもしれません。
皆さんも、ぜひ一度、絵本ミュージアムや美術館を訪れてみてください。そこには、あなたが忘れていた何か、あるいはまだ気づいていない何かが、静かに待っているはずです。
絵本が紡ぐ物語は、いつも私たちのそばにあります。それは、もうひとつの人生の物語なのかもしれません。
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